農業に従事する
久しぶりにブログ覗いたら全然続いてなかった…
何だか文章を書かなきゃいけない気がして。ここ数ヶ月、所謂就活をしている訳ですが、めぐるましく自分の考えが変わっていて、ついていけてません。
なんと言えばいいか、なんだろうな、なんか。
こういう時って色々な要因が重なって一つの結論に行き着くから。まあこれをちゃんと整理して伝えるのが大人っていうやつなんですかね。
就活が無理だったというのもあるし、コロナで世界が今までのようにはいかなくなったというのもあるし、ずっと興味を持っていたというのもある。農業をすることにしたのは。
就活。言語化の練習だと思ってがんばろうとしたけど、出来なかった。
必ずしも正しいことでなくても、全力で取り組めば自分を成長させてくれるということがあると思うけど、結局既にそれではないなと分かっていることのためにがんばれないんだよな。
嘘をつくこと、多少盛ること、建前、本当に必要なのかがやっぱり分からない。
確かに私はコミュ力がないし、人を説得したり、アピールしたりすることが苦手だけど、無理に変えればそれでいいのだろうか。なりたい私は私なのだろうか。
仕事のできる人間が集まる企業で、私が活躍している姿はどうしても想像できなかった。
むしろ上手くできないくせに無理してそれらしく振る舞おうとしている私が可哀想に思えた。
私無理やり変えるほど悪い人間ではないのでは?
元々私はライブエンターテインメントに関わりたかった。エンタメを作りたかった。エンタメのことを誰よりも考えているのは私だと思っていたから。
コロナ以後は元通りには戻らない。新しい形を探って行かなきゃならなくなった。
私の大好きなテーマパークも、コンサートも、演劇も、今後ビジネスとしてやっていけるとは思えなかった。
私は大好きだから、リスクを背負ってでも足を運ぶ。今までもそうだった。
でも特に好きでもない人がそこまでするだろうか。体の弱い人や歳のいった人に、是非来てくださいと呼び込めるだろうか。できないなと思った。
あの土地がある限りオリエンタルランドはなくならない、地理学の教授が前にそう言っていたが、その土地に価値がなくなる未来が見えてしまった。それはもっとずっと先かもしれないけど、ディズニーランド は永遠ではないんだなと正直思った。
農業は密にならない。野外だし、広い。
ここでなら人と人が離れていても、一緒にいられると感じられるのではないか。
人と人が一緒にいても、息苦しくならずに済むんじゃないか。
そういうところに可能性を感じた。
親は急だと言うが、実は以前から農業にはなんとなく関心を持っていた。高校受験、大学受験という節目を迎える度農業やろうかなと考えていた。それは逃げでもあったが。
高校の卒業旅行では海で遊んでる人たちを横目に農業体験をした。
大学一年の時には自給自足生活を送り、休学中には住み込みで農業アルバイトをした。
叔父の農園の芋掘りも手伝わせてもらった。
なんとなく自分には農業が合っているんじゃないかなと思ってた。
友達が都内の洗練された店で美味しい肉を食べていようと、お洒落な服来てオフィス街を歩いていようと、私は髪を雑に結いてほとんどノーメイクで農業していたいと思った。
私に似合ってると思うのだ。
そして何よりそういう自分は好きな気がする。
私は何にでもなれるけど、でも選択の一つ一つは大切だと思ってる。いくらでも自由に選択できる訳だけど、それはどんな選択をしてもいいことにはならない。
一つ一つの選択が自分を形成する、否応にも。
だから私は農業をやりたい。